こんにちは、こんばんは、まこりん*です。

今日は私のお母さんのことについて書きたいと思います。

 

高齢出産の何が悪い?!

私が生まれたのは、母が38歳の頃。

今では40歳以上でも初産の人もいる時代。

私はもうその年齢をとうに過ぎている。

そして、今では2人の男の子に恵まれている。

大切な大切な、命より大切な宝物。

そのことに気づいたのは長男を妊娠し、産んでからのことである。

母とは偉大である。

10ヶ月間、お腹の赤ちゃんお過ごし、陣痛という痛みにも耐えてその子を産み落とすのだ。

その瞬間の何とも言葉には言い表せないくらいの感動。

私は2人とも無痛分娩を選択したが、だからといって、その感動が薄れるものでもなかった。

 

歳の離れた姉が2人。

私には姉が2人いる。年の離れた姉が。

だから、38歳で私を妊娠し出産したことなど、今の時代では普通である。

共働きだった我が家は、私を小さな時から保育園に預けていた。

そして、お迎えに来るのは中学生の姉だった。

いつも保育園の裏の出入口から遠くまで続く道を今か今かと姉が自転車を走らせて迎えに来ることを待ちながら、眺めていたことを、私はよく覚えている。

そして、小学生になった。

低学年の頃だった。

少しずつ色んな気持ちを表現することが出来る年齢である。

しかし、それが相手にどう受け止められるかまでは考えられなかったのでだろう。

自分中心の年齢である。

私はお母さんが参観日に学校に見に来ることを嫌っていたのだ。

何故かというと、周りの友達のお母さんは若かった。

もう何十年も昔のことだし、田舎だったから余計にそうだったのかもしれない。

一人っ子というのも少なく、それでも周りのお母さんたちは若く見えたのだ。

そして、私はすごく恥ずかしいと感じていた。

12こ離れた姉に、参加日に来てほしいとせがむ。

その時、お母さんはどう感じていたのだろうか。。。

きっととても寂しい気持ちになっていたに違いない。

今ではその時の言葉を悔いている。

 

親の心、子しらず。

私はお母さんの気持ちなど考えもせず、思春期を迎えていた。

そして、高校生になって進路を決める頃、私は西の方の田舎町を出て、

親友に誘われて、ココロをときめかせながら、東京へ上京した。

私が目指したの看護師だった。

それをお母さんは誇らしく思ってくれ、誰よりも応援してくれていたのだ。

 

下記の記事には看護師を目指した私のことを書いてるので、ご興味がある方は下のリンクから。

看護師になった私。

こんにちは、こんばんは、まこりん*です。 今日は、転職にも有利な資格について、話していきたいと思う。 まこりん*が取得している国家資格とは。 これまでどんな資格を持っているのか話すべきか話さぬべきかとずっと考えていた。 […]

 

そして、看護学校を卒業したら、関西に戻り就職するなど、、、約束していた。

しかし、その約束を私は守らなかった。

当時付き合っていた彼が東京の人だったから。

 

とつぜん、その日はやってくる。

私が24歳のときのある日。

電話が鳴り響いたのである。それは姉からの電話だった。

普通に取った電話だったが、次の瞬間、手が凍りついた。

そして、頭が真っ白になった。

「お、お母さんが倒れたの…。」

姉の声も震えていた。

訳わからず、私はガサガサと荷物をまとめて、実家へと向かった。

その時のことはよく覚えていない。

ただただ、心臓が飛び出すくらいの緊張と不安を私を包んでいた。

新幹線の中、お母さんの手術が始まったことを聞いた。

くも膜下出血だった。しかもかなり出血が多いことも聞かされた。

私には経験(救命救急センターで勤務していたことがある)から、その助かる可能性の低さ、助かったとしてもどうなるのかも分かったのだ。

そして、遠い遠い田舎まで帰り、病院に着いたときには

お母さんの手術は終わっており、そしてたくさんの管に繋がれていたのだ。

元気だった姿はそこにはなかった。

一番年下の妹だったが、看護師だったこともあり、病状の説明は私中心に行われた。

そして、そこにある弱々しい命の灯火が消えていくのを家族で見守っていた。

数日後、お母さんは天のひとつの星となったのだ。

「解剖をさせてほしい。」

それも看護師であった私に医師は話しかけてきた。

いろんなことを知っていた。それがどういう意味で、後には誰かのためになるかもしれないことも。

しかし、いざ自分の遺族となったら違っていた。

「もう何もしないでください。このまま家に帰らせてください。」

私はそう答えていた。

姉に後で話したが、間違っていなかった。家族の誰もがそう思っていたから。

それからの私は、楽しかった思い出よりも、後悔ばかりが押し寄せてきた。

「お母さん、参観日来なくていい!お姉ちゃんに来てもらう!!」

そんな遠くの記憶も蘇ってきた。

東京の大学に行って、卒業したら地元に戻って看護師をすると約束をしたのに守らなかったこと

いつか富士山を見に一緒に行こうと約束したのに一緒に旅行に連れて行ってあげられなかったこと

彼のことは紹介していたが、花嫁姿を見せることができなかったこと

お母さんが倒れる2日前に電話で

「携帯の電話変わったら、すぐ教えなさい!」と怒られたこと

今でもそのことを考えると胸がギュッと締め付けられる。

でも、そんなお母さんとは、特に上京してからは、長電話することが多かった。

親友の女友だちのようだった。

今やってる勉強のこと、看護師になって大変なこと、担当の患者さんのこと、

そして、付き合ってる彼のこと。

特に恋愛関係の話には花が咲いたものだった。

真剣に話を聞いてくれて、アドバイスくれたことも。

どんなことでも話せる関係になっていた。

地元にいた頃とは全然違った。

遠く離れていたこともあるだろう。

そして、私が少し大人になったこともあるだろう。

でも、お母さんというものがどんな気持ちでどんな目で子どもことを見ていたのかを知ったのは、

私が母となってからだった。

 

母となるということ。

それはもうお母さんが亡くなってから何年も経った私が30歳のとき。

長男をお腹に宿したその時からだった。

少しずつ少しずつ、母となるということがどういうものなのか知ったのだ。

二人目を産んだのは35歳のとき。

もうすぐお母さんが私を生んだ歳になる頃だった。

そしてその歳になったとき、私はシングルマザーとなっていた。

周りのママ友には私より年上の人も意外といて、40歳過ぎて初産だった人も数多くいた。

私はあのとき、あの幼いとき、なぜお母さんにあんなことを言ったのだろうか。

今は、ちょうどその頃の年齢になっている私がここにいた。

染めてはいるものの、白髪も多くなってきた。

テレワークが続いていることもあって、化粧もほとんどしなくなった。

ちょっとした買い物くらいはノーメイクで行っている。

きっとあの頃の私が、今の私を見ても同じことを言うんだろうな笑。

誰でも歳を重ね、老いていくのだ。

でもまだまだ私は、精神的には母ほど大人ではない気がする。

あんな風に何もかも受け入れて、私を応援してくれた母には、遠く及ばない。

ふと、子どもたちは私のことをどんな風に見ているのだろうと思ってしまった。

電話越しに笑うお母さんの笑い声が、私の耳に残っている。

私もお母さんみたいな母になりたい、そう思うのだった。

 

 

 

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